大阪と綿花

NHK朝の連続ドラマ『朝が来た』の中で主人公(浅)のご主人新次郎が紡績会社を興すことになる場面がありましたが、大阪は江戸時代から『河内木綿』という商品作物(現金化し易い)を栽培していました。もともと河内木綿も農家が片手間で栽培していたものです大阪平野を南北に流れる大和川が頻繁に洪水を起こすため、流れる方向を淀川から大阪湾に流れるように付け替え工事をした結果、低湿地帯ではあるが2000ヘクタール耕作可能な土地が出来ました。低湿な土地であったため、米作には不向きであり土地の開発者であった鴻池氏が綿花栽培を始め成功しました。綿花栽培には米作と違い、数年栽培すると土地の養分が低下して栽培ができなくなるという問題があり、とくに窒素分を補給してあげる必要があります。江戸時代には北前船で北海道から大量にニシンが大阪に送られ、このニシンが窒素肥料の代わりとなり重宝されました。その後明治時代に入り『東洋紡』が設立され綿紡績が日本の主力産業となり外貨獲得に貢献しました。とくに第一次大戦後はイギリスのマンチェスターが戦争の影響で綿紡績の生産が低下して日本が最大の綿製品輸出国となりました。しかし、海外からの綿花輸入が中心となったため、日本の綿花生産はどんどん低下しました。日本の総合商社(ニチメン、トーメン、伊藤忠、丸紅)の源流の多くは綿花及び綿製品の輸出入で発展しました。その名残を示す『綿業会館』が大阪市中央区備後町にあります。